「響け!ユーフォニアム」で引っ張り出された、私の青春の話

これを読んでくれている酔狂な方、はじめまして。たった今、『劇場版 響け! ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』を見てきた古代人です。

このGW中友人宅で見た「響け!ユーフォニアム」によって、心の奥底にしまっていた感情の置き場を無くしてしまったのでここに置かせてください。

 

 

 

全国大会、この言葉で未だに私の心はざわつく。かつて、渇望し、敗れ、もう二度と手に入れることは出来ないもの。僕は特別になりたかった。

 

この話は私が高校一年生の時から始まる。無事に受験を終え、高校では文芸部とどっかの部活に入ってふわふわ生きようとしてた私が兼部先に選んだのが、工芸部だった。おそらく何をする部活かピンとこないと思うので説明すると、簡単に言えば木工版美術部である。年一回の高校美術展に向けて、椅子やテーブルを作る。工作が好きだし、部室が離れのアトリエ感があり面白そうだったので入部を決めた。まさかこの決断が私の一生を大きく変えるなど、微塵も考えてなかっただろう。

それからの毎日は、少しずつ工芸漬けになっていった。先輩に本当に高校生か、と疑いたくなるくらい工芸が上手い方(この先輩は一年生で全国に行き、二年生で県知事賞を取り、三年生で取る賞がなくなったので、この後から新しい賞が増設されることになった)が居て、厳しく指導をしていただいた。僕自身も少しずつ上達していく感覚が楽しく、木の美しさ、道具を研ぎ澄ましていく感覚、0.05ミリの精度を目指す緊張感に嵌っていった。テストの学年順位がどんどん下がっても、地理の先生に留年するぞ!と言われても、ほぼ毎日22時過ぎまで木を削っていた。一年生の高校美術展は作品が完成していたら出してもいい、というスタンスだったので僕は美術展から2ヶ月過ぎた冬に初めてのスツールを完成させた。憧れの先輩が用いていた、組手と竹を使ったクッションの技術を取り入れた椅子。正直諸所の完成度は微妙だったが、初めて作品を作ったという達成感に酔いしれた。この椅子を昇華させて、次は自分が全国大会へ。そう強く信じていた。

二年生になった。高校美術展というのは特殊で、県大会の半年後に全国大会が行われる関係で二年生までしか全国に行くことができない。つまりこの年が全国に行ける最初で、最後の年である。全国に行きたい、その思いで鉋を研ぎ澄ましていた。デザインは思っていたより早く決まった。一年生の時に作った竹のクッションのスツールを、背もたれ付きの椅子へと昇華したデザイン。黒のウォルナットは鉋による鋭い直線を生かし、ブナとハードメープルから削り出した曲線との対比を見せる。全体のまとまりを出すために、鯨をモチーフとして形を作っていった。全国に行くためにはありきたりな椅子ではダメだ、誰も見たことのない椅子を。その思いを込め、椅子の制作に取り掛かった。

木材を買い、規定の寸法になるまで削り、継手や組手によって木材同士を組み合わせる。椅子を作る過程は簡単にいってしまえばこうである。だが、その過程一つ一つに莫大な労力と時間がかかるのだ。木材は時間経過によって変形していく。反る、曲がる、中から割れが出てくる。そんなアクシデントをどうにかして材の大きさを揃えたら、次は木材同士を継いでいく。これが最も技術を要する部分だ。釘やビスなしに家具を作り上げるため、またデザインを洗練するためには精度の高い継手を要求される。私の椅子も臍の精度が必要なデザインだったので神経をすり減らして作っていった。

春にデザインが決まり、夏が過ぎ、秋が終わり、修学旅行から帰ってきて間も無く、高校美術展の日が間近に迫っていた。私の椅子は、残りブナやメープルのパーツを曲線状に削り出す段階にきていた。ここの削り出しで、全体の美しさが決定する。そう信じ毎日遅くまで、右手の親指が削れてしまい押すと血が吹き出るようになるまで削り続けていた。最後の5日間ほどは学校に泊まり込んで作業をしていた。高校美術展前日の深夜、削り出しに見切りをつけて塗装を開始した。蜜蝋による塗装でウォルナットの黒は見違えるほど美しくなったのを今でも鮮明に覚えている。朝方、塗装したパーツを組み合わせ、初めて自分の作品の完成形を見た。これは今、自分という人間が作り出せる中で最も美しい椅子。そう思えた。お昼前、美術館に作品を運び込んだ。椅子の名前は浮いたように見える座板から「float chair」と名付けた。発表は次の日。その日は家にそのまま帰り、泥のように眠った。

次の日の授業は緊張と高揚感で手につかなかった。前日の周りの先生の反応は上々だった。背もたれと座板がクッションになった椅子、竹と組手のみでクッションを作りました。そんなことを何度も言った記憶がある。クッションの技術、曲線と直線の対比、鯨の尾びれから着想を得た背もたれ。全国に行けるかもしれない。もう決まっているであろう結果を放課後まで知れないことがもどかしかった。

放課後、他の部員たちと美術館まで結果を見に行った。行きはなんか皆ぎこちなかった。工芸分野から全国に行けるのは一人だけ。この中の誰かしか全国にはいけないのだ。緊張で私の手が震えていた。駅を渡った先に美術館が見えてくる。足取りを速め、中へと入った。展示室のある地下へと降りた時、顧問の先生と他の数人で全国へと出展する作品の写真を撮っている真っ最中だった。そして丁度撮影されていた椅子は、私のものではなかった。

優秀賞、それが私の作品に与えられた賞だった。顧問の先生は言った。今年の工芸部はレベルが高く、5人中4人が優秀賞だったよ。本当に僅差で彼の作品に決まったんだ。こういうのは先生たちの好みもあるから。やめてくれ、そんな話が聞きたいわけではない。僕は全国に行きたかったんだ。全国に行った友人が言った。ごめん、俺なんかが。そこで謝るくらいの覚悟だったのか。それなのに全国にはいけたのか。彼の何がすごくて、僕の何がダメだったのか。今なら何が評価されて、何がいけなかったのか少しはわかる。だが当時はそんな八つ当たりのような感情しか抱けなかった。

この後の式典や講評会は正直あまり覚えていない。自分の作品がスクリーンに表示され良い評価をされても、じゃあなぜ全国に行けなかったんだという気持ちしか湧いてこなかった。式典の途中、顧問の先生に名指しされ「工芸の美しさとはなんだと思う?」と聞かれ「使うことを前提とした美しさ、用の美です」と答えた。全国に行った友人の方を当てればいいのにとか、音が鳴らせることが評価される椅子が全国に行ったことに対する当てつけのようなドロドロした感情ばかり今でも覚えている。学校に戻った後、いろんな友人に心配された。全国を目指して、勝ち取れなかった私を気遣ってくれていたのだろう。でもそれすらも少し辛かった。どうしてダメだったのか、そう思って自分の鉋を研いだ。指が痛かった。悔しかった。俺の方がいっぱい研いできた。そんなことも考えた。

物語ならば、きっとこの後何か劇的なハッピーエンドがあるのだろう。だがこれは私の話で、一回きりの全国大会に出られなかった話で、明確な救いなどない。三年生になり工芸から少しだけ心の離れた私は、木工ではなく、陶芸にはまった。顧問の先生に工芸の先生にならないかと誘われたが、そこそこ迷った後にやめた。先生の前で、木工が好きではなくなったと泣いた。どうでもいいから早く終わらせたいという気持ちになってしまった。美術展のかなり前に作品は完成した。三年生の高校美術展は、用の美から少し外れたテーブルでまた優秀賞を取った。こんなんで優秀賞が取れるのかという気持ちになってしまった。

今、木工は嫌いではない。家具が好きで、ものづくりが好きで、用の美を極めたくて建築学系に来た。なんとなく、諦めきれていないのだろう。全国大会に行けなかった自分の木工への愛を証明したかったのかも知れない。でも建築は木工ではない。安定した生き方がしたくて、受験へのそこそこの才能を活かしたくて、東工大という選択肢を選んだ。これでいいと思っていた。だが今、僕は響け!ユーフォニアムによって感情を揺さぶられている。これからの生き方を考えている。後悔しない生き方を。そう考えることができるようになったことが嬉しい。

 

 

 

ここまで読んでくれた方、書き殴りの文で失礼しました、全国大会という単語で眉が動く人間はユーフォ見ると感情が動くことがあるかもしれません。リズと青い鳥を人生モチベにしばらく生きていきます。ありがとうございました。